「理解し合うこと」の極意

 
香港には日本通が多い。リピート観光先としての人気はもちろん、「あいうえお」だけでも一度は日本語を学習したことがあるという人がほとんどなんじゃないかと思えるくらい、非常に多い。そしてもちろん、流暢に日本語を操り業務についている人も相当数いる。
 
私は採用側として日本語スピーカーの面接をすることが多かったが、日本語を必要とする職務に応募してくるその背景として、どうして日本語力を身につけるに至ったのか、そして「日本」に関する何が彼らにとっての動機付けとなっているのかが気になるところ。「日本の優れたサービスに感動し…」「ドラマなどから垣間見える日本人の礼儀正しさに憧れ…」欧米系の面接術が浸透している転職社会香港では、やってくる候補者も百戦錬磨。面接時に聞き取れるのは模範解答ばかりだ。
 
ところが、実際に一緒に働くようになった彼らに後日、友達感覚で同じ質問をしてみると、「あぁ、本当は大学でフランス語を選択したかった。だけど、抽選に漏れちゃったから仕方なく。」とか「朝早くから授業に出るのは嫌だったから、午後の科目だった日本語の授業を選択したの。」とかいう本音も聞こえてきたりする。
 
まぁ、だからといって人間全く興味もないものには手を出さないだろうから、それが漠然としたものであったにせよ、日本に何らかの肯定的なイメージをもともと持っていて、それがために日本語を勉強し始めたことも事実だろう(と思いたい)。香港人の場合、それが日本のアニメやドラマ、人気歌手の歌謡曲、日本の食べ物、日本での観光旅行・・・などみたいだ。
 
きっかけが何であれ、そのまま「日本語」をキャリア形成の上で武器にするまでに磨き上げるには、やはり何らかの動機が持続していたに違いない。巷には日本に関する情報が溢れているけれど、翻訳されたメディアを通してしか入手できない人と、日本発のメディアから直に日本語で情報収集できる日本語学習者とでは、その日本通ぶりには歴然とした開きがある。常に新しい文化を発信し続けている日本は、そんな「通」達を飽きさせない魅力に溢れているのだろう。
 
言葉が出来るようになったら、やはり日本人とより深く知り合ってみたい。そうして知り合った日本人と楽しい思い出が共有できれば、ますます日本に対して好意的になっていく。
 
そんな彼らが初めから私に対しても好意的に接してくれることは素直に嬉しい。ただ、「日本人」として私が不安に思うこと、それは、身近な存在である自分を通して、彼らが良くも悪くも日本のイメージを形成してしまうことがある、ということだ。私の何気ない行動や言動によって、「日本人はそうなのか」と早とちりされてしまう。多くの日本人に接する機会のある人ならば、私のそれも個性としてとらえてくれるかもしれないけれど、生身の日本人と身近に接することが少ない人にとっては余計に、私は【歩くニッポン】なのだ。
 
香港で働き始めた頃は『うーん、よく理解できないけど、この人は日本人だからしょうがないか』といって片付けられてしまうことが多かった。そのたびに相手の理解を得られていないことに歯がゆさを感じていたけれど、気がついてみればそんなストレスを感じることも無くなったのは、知らず知らずのうちにコミュニケーションのコツを体得したからだと思う。
 
私の根幹を成す日本人としてのアイデンティティ。それはもちろん、日本社会の中で培われた、私の思考や行動の基礎となるものではある。けれど、多国籍の人々とかかわる中で私が常に心がけていること、それは、『一人の人間として、いかにあるか』を伝えることだ。一人の人間として、何を価値基準とし、物事をどうとらえるのか。全ての日本人が「YES」ということに対して、もし自分が「NO」だと信じるのであれば、自分の魂を売り渡さすことなく信念を貫くその覚悟のほどを言葉にして伝える・・・といったら大袈裟かもしれないけど。
 
たとえば仕事の場面で、日本の客先と香港人や中国人の同僚との間で板ばさみになることがよくある。そんなとき、主体性を失くしてどちらかになびいてしまっては調整がつかない。両者の間でフェアな判断を下せなければ双方からの信頼を失ってしまうから、自分の判断というものを筋道立てて明示することが必要になる。
 
客先から「あなたは日本人だから分かるよね」と言われることがある。確かに私は感覚的に日本側の言い分も理解できる。でも、それを香港人や中国人に伝えるときに、うまく説明のつかない感覚的なことだからと「とにかく日本人はね…」などと説明をはしょったら上手くいかない。私の役割は、その【感覚的なもの】を言葉に開いて説明すること。なぜ香港人や中国人の感覚では理解できないのかを理解した上で、日本人の感覚を言葉に直して、説明を加えながら通訳していく。逆に、客先の日本人に対しても、こちら側の香港人・中国人スタッフの【感覚】というものを同じ要領で言葉に置き換えて伝えていく。さらに、客観的な立場で中間地点にあるはずの落としどころを見極め、そこに両者を誘導して問題を収束。うまくできたときの達成感といったら、もう、やみつき(笑)。
 
私と一緒のチームで働く日本語スピーカーの中国人Bちゃんは、日常の営業事務をサポートしてくれていた。生産や納期のスケジュールについて客先とこまめに連絡を取っては調整するのが彼女の役割。その仕事振りは非常にレベルが高く、私は彼女に絶対の信頼を寄せている。そんな彼女だけど、とある客先の日本人担当者が手ごわいらしく、「私、○○さんが嫌いです!出来ないと言っても、なかなか納得してくれないんです!」と訴えてきた。
 
Bちゃんが相手に対して『嫌い』というネガティブな感情を持って仕事をしていることが、私には非常に気になった。せっかくモチベーション高く日系顧客の担当をしてくれているBちゃんが日本人嫌いになってしまっては残念だし、良くも悪くもまっすぐな性格のBちゃんがひとたび「日本人嫌い」になってしまうと、どの日系顧客も任せられなくなってしまう危険性もある。幸い、客先の担当者は人間性は悪くない。業務上の要求も、厳しいけれど逸脱してはいない。これは単なるちょっとした感情のもつれだろうから、早いうちに修復せねば。
 
そこで私は彼女にコミュニケーションのコツを伝授することにした。
「社内で現場の人たちから情報収集するときにね、出来ないことはどうして出来ないのか、まずは理由を丁寧に確認してみて。その上で、ちょっとの工夫で社内で解決できる問題なら社内の各部門に理由を説明し、それと同時に改善を提案する。それでも解決できなくて、どうしても客先の理解を求めなければいけない部分については、お客さんに対してもきちんと理由を説明することが大事よ。だけど、営業という立場では、会社の利益を護るためにお客さんに話していいこととそうでないこともある。判断に困る場合には、いつでも相談して。一緒に考えようね。」
 
それ以来、私と彼女の間で、日々のトラブル一つ一つが、ケーススタディーの教材となった。目の前の問題はどんな内容なのか。目指すゴールはどこにあるのか。そこまでの障害を一つ一つ一緒に考え、お互い言葉にして確認しながら、解決までの筋道を探る。「私たちの立場ではこうだけど、客先の立場ではこう考えるだろう」ということをシミュレーションした上で、こちらの提案をまとめ、それを客先に説明し理解を得ていく、というプロセス。
 
もともと優秀なBちゃん、飲み込みが非常に早かった。ひとたび客先の理解と信頼を得たら、先方から無茶な要求がくることも無くなり、仕事が面白くなってきたようだ。ついに「お客さんの○○さん、初めは嫌な人だと思ったけど、実は優しい人でした」と嬉しそうに報告してきた。あー、よかった。それを聞いて、私も嬉しい!
 
異文化理解のためのコミュニケーション。人種や国籍や文化的な違いを越えて、一対一の人間同士、いかに理解し理解されるかというところに難しさがあり、そしてそれが醍醐味でもある。そんな個としての人間同士の信頼が積み重なって、相手の国への敬意にも発展していくんじゃないかな。【歩くニッポン】ではなく、【しゃべるニッポン】。今日もコミュニケーションを大切に一日を過ごそう。