面子の文化

よく、中国は「面子」の文化だといわれる。これが香港の日常でどう表れるか。


たとえば仕事の場面で、先輩が後輩をたしなめるということがある。しかし、これが香港だと難しい。

まず、「先輩」「後輩」という観念がほとんどない(明らかに自分よりはるかに年配者だったり、職位的に上司だったりする場合は敬意をもって接するけれど)。「自分よりちょっとでも多く経験している人は、中身はどうあれ無条件に立てる」というのは組織集団の和が個人のエゴイズムに優先する日本独特の文化だろう。日本人は中学校に入学と同時に、こういった上下関係をたたき込まれて育つし、それが良くも悪くも社会規範として機能しているのだけれど…。


で、この概念が無い文化を持つ人たちに、日本風の先輩風を吹かせてお説教などするとどうなるか。

「先輩の言うことはとりあえず聞こう」とか「あぁ、注意された自分はまだまだ至らなかったんだなぁ」とか、ましてや「半人前の自分が恥ずかしい」などと己を恥じ入るという発想にはならないようだ。それより、下手をすると「なんだこいつは偉そうに」「私の面子を潰す気か(私に恥をかかせる気か)」と受け取られてしまうから難しい。特に、一対一ではなく会議など大勢が集まる場や、周りに人のいる場で注意すること、果てはCCメールのような複数名が受け取るメール上で相手の主張に反論することはタブーである。こちらに暮らす日本人駐在員の人たちと話をすると、皆「香港人スタッフはプライドが高くて…」と一様におっしゃるのも、おそらく、そういったタブーを知らずに地雷を踏むという、似たような苦い体験をされたのだろう。

実は私も、昔の職場で大失敗をしたことがある。私より後から入社した年下の若い香港人が、仕事でミスばかり重ねる。根気よく指導しつづけていたが、あまりにケアレスミスの欠点が治らず、ある日客先に迷惑をかけることになった。そうならないようにと念を押していたにもかかわらず、だ。ついに爆発した私がそれをデスクできつく叱ったのだが、これが逆恨みを招き、職場中に誹謗中傷を撒き散らされたのである。もっとも相手にした人の性質が悪かったのもあるかもしれないが、おそらくその時に彼女のプライドを傷つけない工夫をしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。

同様のことは程度の差こそあれ、日常あちこちで起こる。私も最近になるまでずいぶんと反発をうけて苦い思いをしてきたものだが、それは良かれと思った「後輩指導」の心が日本人同士なら通じるものも、こちらでは言う時の環境設定を一歩間違うと「恥をかかされた」と受け取られてしまうからだと気がついた。私が外国人だから理屈が通じないのかと一時は思っていたが、面白いのは香港人同士でも、いわゆる先輩格の人間から自分の非を注意されて謙虚に反省してみせるケースは稀なようで、どちらかというと同じ理由で反発を招くことが多いようだ。年齢の近い者同士ならなおさらで、争いを避けようとする場合はよっぽどその辺の術に長けているか、あるいは結局それを注意すること無く見て見ぬふりをして終ってしまうこととなる。困りきった若い香港人が、「私がミーティングで発言してもダメみたい。いくら私のほうが経験に基づいて正論を言っているといっても、年が近いからって相手にしてもらえないの」と相談してきたときには、我が意を得たり!と密かに膝を打ったものだ(笑)。

一度、悩んだ末に大御所的香港人のオジ様に相談を持ちかけたことがある。彼曰く、「学校でも、人気取りに走るばかり生徒を甘やかしてダメにする先生と、煙たがられても正しいことを教える先生といるね。大人になって振り返ったとき、どっちの先生が良い先生だったかわかるものさ。君は正しいことをしているんだから、自信を持ちなさい」と言っていただき、大感激したこともあった。

さて、あるとき職場で後輩の若い女の子に一発注意をしなくてはならない場面に再び遭遇した。香港人同僚の間でも、彼女のプライドと負けん気の強さは折り紙つきの評判で、正直気が重かったが、これ以上放っておくことが出来ない状況だった。以前、彼女に注意をした香港人の先輩社員がやはり逆恨みされて痛い目にあっているのを知っていたので、こちらも相当の覚悟をして対戦(!)に臨んだ。

夕方、就業直後の閑散としたオフィスで、私は彼女を個室に呼びだした。話の内容は、彼女の営業マンとしての心構えについて。彼女の姿勢に疑問を持った日系のお客様から「あの人は担当者じゃないんですか?」と聞かれたこと、それに対して私がとっさに会社のイメージ&彼女の立場を守る為に聞こえのいい言い訳をしてその場を取り繕ったことを説明したところから始めた。これは彼女の「面子」を守る行為である。案の定ポイントを稼いだようで、彼女がいつになく聞く耳を持って私の話の続きを冷静に聞こうとしているという手応えを感じた。そこで、仕事の経験不足や知識不足は仕方ないが、営業マンとしていかにお客様にサービス精神を見せるべきか、ということを最近の具体例を示して説明を続ける。感情的にならず、あくまでも相談を持ちかける、というスタンスで。彼女のプライドを傷つけないように、でも彼女には己の至らなさを自覚させないといけない。高圧的にならないよう、でも必要以上に相手に媚を売らないよう、そして自分がそれだけの注意を出来る立場にあるという威厳を保ちながら、最後はちょっとしたジョークで爽やかな笑いまで取って、彼女を席に戻す。すると、いつになく彼女なりに反省の色を見せ、「分かった、私も態度を改める」としおらしく約束してくれた。


ちなみに、注意されるほうも応酬されるほうも「面子」が大事だ。上司から怒られた部下も、他人の面前で部下からはむかわれた上司も、「面子をつぶされた」と言って怒っているのをよく見かける。


かくいう私も、以前は観察対象だった「面子」の感情が、「私の顔を潰す気か」という怒りの感覚として、いつのまにか自分の中にも自然と芽生えるようになった。相当に現地化したようだ。